終りに見た街

終りに見た街


同じメッセージを私も持つのではあるが…、
今の若者の文法には合わないように思う。

23年ぶりのリメイクだそうだが、この作品が描かれた背景には、
おそらく激しい学生闘争があり、その高まりを危惧して書かれた
のだろうと思う。
この物語が受け入れられたのは、この物語の文法でマッチしたのは、
学生闘争を治めた後の「あそこで抑えて良かったんだよね?」という
ような、民族主義を捨てた事への後悔というか後ろめたさというか、
孤独感・寂しさ…等の漠然とした不安を誤魔化し正当化し安心する
ための無意識的なバイアスがかかっていたからこそ、視聴者に受容
されたのではなかろうか…。


合わないと言うのは、今、ナショナリズムが高揚している最中だから。
このような作品は、当人にむしろ理不尽なオチとしてしか理解されず
火に油を注ぐような作用をしはしないか…と思わされた。
焼け石に水と言った方が相応しいか。


むしろ
「バトルロワイヤル」のような、ドラえもんの独裁スイッチのような、
そして一人残された。望みはこれか?それで良いのか?となるような
構造の作品であった方が響くのだと、私には思える。

現在公開中の映画「男たちのYAMATO」では、どのような物語構成になって
いるのだろうか…。CMを見る限り、一方的な理不尽の疑似体験。
因果応報の構造にはなっていないのでは無かろうか…。


その構成とは、
ぶっちゃけて言ってしまえば「猿の惑星」と同じなんですがね。