安心できる世の中とは…リスク対不確実性


人は情報不足のためリスクが不明瞭である曖昧な選択より、リスクが明確な状態での意思決定でより安心感を得る
不確実性をはらむ意思決定を下さねばならない場面に直面したとき、感情を処理する脳の部位が突然活性化する

バブル以降、日本が国策的に取り繕った幻想としての治安大国が、どれほど不安を駆り立てたのか…それを裏付けてくれるお話ですね。世紀末のあの不安感は。


平等だ平等だと叫び均質化をもたらし、個性だ個性だと叫びながらも、ただ洋服を換えるような、単に色違いで個性だとするような、人の本来持っている遺伝的特性を無視し続けた結果だ。

違いを指摘する事が罪悪となり、違いを認められた範囲でのみ提示し、誤魔化し程度で納得させられていた。


なんだかんだ言って、この今の改革は、その観点からは評価できる。結果、多様な世界をもたらした。差別意識の顕在化と共にね。その手法を支持は出来ないが。

結果としての平等を否定するのも良いが、結果としての勝ち組・負け組で人を判断する…のでは、因果が逆立ちしていて、やはり個性とは何の関係もない。


先天的な違いをまず認めることが、リスクの明確な状態であって、その明確化されたリスクをどう公平に扱うのか。そのような順序での論理こそが必要だ。

人の脳は素晴らしい。アンビバレントな価値観の対立にも、何らかの公平な解決策を見つけて行くのだ…と私は信じている。だから、隠すことが、差を感じ無くさせることが平等をもたらすのではない!…とは言いたい。