美しい日本語?


そもそも「日本語」は美しい物ではない。


その成り立ちはチャンプルである。
外圧に浸食され形を変え続けてきた総体が今の日本語である。


「基本に返れ」と古い定型を持ち出してくるような「先祖帰り」が
取りざたされるが、日本語の日本語たる核心は、そんなところにはない。
おそらく。


アジアにおいていち早く西欧文化を吸収し、経済発展技術革新できたのも、
漢字仮名交じりのチャンプル言語を使っていたからこそ、知識移転と、
技術・概念の共有・教育も早急に可能だったのだろう。
例えばカタカナ、ひらがなの表音文字の重複性という無駄さが、その
美しくない共存が、外来語表記を意味分けする「今の日本語」を生んだ。
それもおそらく体制的なものではく、無意識的に広がったのでは?


あの時点で中国にそれができなかったのは、漢字という完結した文化が
容易に変容し難かったからだろう。陰陽五行の体系も含め(ただ、
デジタル時代に入った今、筆記の知遅鈍も解決され、大量の情報を
少ない面積で表現できる漢字文化に優位性が生じつつあるだろうが)。


むしろ、その成長する潜在性を持った言語としての日本語を、
合理的でなく無駄が多すぎるジャンク遺伝子の総体のような日本語を、
それ故に、その部分こそが美しさの源泉である…と私は考える。