幻覚に至る感覚

人の目が二つあることから、視線の移動とは矛盾する図像の変化を
脳が関知しているはずだ。その実像とは矛盾する異なる像の認知は
例えば両眼視覚野闘争と言われ、左右の目の見た像を脳が合成して
作り上げる。
個人がそれを意識したとき、その者は、例えば…絵画に描かれた
人物が勝手に動いた…のだと感じる事がある。


デジタル写真による 解像度の極端な低減によって、
被写体がその表情を変えることが理性的に認知できる。
そのことによって、例えば…観察者の感情に呼応して
表情を変えると称される人形の存在も、オカルトではない
存在として認知されることになるだろう。



その「目」ではあるが、生物学的に光を関知する生物の感覚器官に
限定しても、そこに問題が残る。
光沢のある球面。ガラス玉や宝石類も、短期的には「目」として
認知される。白黒コントラストの高い同心円であったりするものも。
それを生物学的な意味での目だと確信するかどうかは別にして。


言ってしまえば、カメラレンズは、生物学的に目の定義からは外れるが、
そこで写し取られた物は、再生する人によって観察される。「見られる」
のだ。思念を持った生物に間接的にであれ認知されるに至るのであるから
やはりそれも「目」ではある。


人はその視線を…目にはあらざる「目」を…追う。それはほとんど
無意識的に。漫画では描かれた目とされる記号を二次元的に追い、
コマを横断した背景描写を、その者の見ている景色として解釈
したりする。それが感覚的に判らなければ、その者は、同じ作品を
読んでもそこで感じるもの、得られるものは乏しいたろう。
それが個々の作者にあって意識的に用いられているかどうかは
私には判り得ないが、同じ文法・用法は、芸術なり広告なりで
頻繁に見かける。