イツキ

こういう見立てはどうだろうか?

扶桑国王・イツキは女王であり、伊勢神宮の斎王である。
扶桑国は、四国にあり、九州・朝鮮動乱の際、奈良に移った。
そこにあった女国と習合したが故に、当時の天皇は女帝が続く。

蘇我氏の拠点は四国であり、そこには聖徳太子の伝説も残る。
この頃蘇我は瀬戸内海を掌握しており、吉備姫王の領土が
その財政基盤になっていた。

習合と書いたが、どちらが乗っ取られたか判らない。
蘇我三代は滅亡のような形で排除された。これは
文化収奪されてしまったのだ…とも言えなく無い。

そこで、大君(オオキミ)・大臣(オオオミ)・大連(オオムラジ)は
それぞれ貴音の異なる文化圏で、それぞれどれも意味は「大王」
だったのではなかろうか。
それぞれ、文身国、扶桑国、倭国の大王と仮に対応してみたい。
もしくは、キミは貴耳で、オミは御耳と。ムラジは群耳だろうか。
大きな耳は高貴の証であり、埴輪に残る形は、髪型ではなく、
誇張された耳そのもの…と、ここでは解釈してみる。


扶桑国と蘇我氏とを重ねるような見立てになっているが、そうではなく
朝鮮渡来人である蘇我が、日本海経由で若狭湾から列島に入植、近江から
瀬戸内海に抜け、伊予の辺りまで攻略した…という見立てでもいい。
九州・朝鮮が政治的主導権争いの中にあって、それを背後から突く
戦略の中に見立てると、また面白い。九州王朝説を取った場合、それが
滅亡したとしても、畿内に逃げたとしても、その九州での勢力衰滅の
理由が見えてくる。

その圧力の中で扶桑国は東国に逃れ根を下ろす。そこでの受容された
証が、例えば常世虫信仰のような形で新興宗教としての討伐の対象
として描かれれいたりしている…とか。

今の皇統を確実に辿れる天武は、中部から機内への流入として描かれている
ことは、日本という扶桑の意味を冠するものに落ち着く事と繋がるのかも
しれない。


オメガ-3脂肪酸のドコサヘキサエン酸(DHA n-3)は、哺乳動物の脳の灰白質中のホスホグリセリドの主成分として古くから知られている。
さらに、灰白質から単離されたシナプトソームに関する初期の研究から、シナプトソームの細胞膜にはDHA n-3が含まれ、それらのDHA n-3は、ホスファチジルエタノールアミン、プラスメニルエタノールアミン(アルケニルアシル−グリセロ−ホスホリルエタノールアミン)、ホスファチジルセリンと選択的にエステル結合していることが示された。
対照的に、これらの膜のホスファチジルコリンには、エステル化オレイン酸が含まれ、膜のスフィンゴミエリンおよび糖脂質には、他のアミド結合脂肪酸との混合ではなく、アミド結合したステアリン酸が含まれていた。

へー。

幻覚に至る感覚

人の目が二つあることから、視線の移動とは矛盾する図像の変化を
脳が関知しているはずだ。その実像とは矛盾する異なる像の認知は
例えば両眼視覚野闘争と言われ、左右の目の見た像を脳が合成して
作り上げる。
個人がそれを意識したとき、その者は、例えば…絵画に描かれた
人物が勝手に動いた…のだと感じる事がある。


デジタル写真による 解像度の極端な低減によって、
被写体がその表情を変えることが理性的に認知できる。
そのことによって、例えば…観察者の感情に呼応して
表情を変えると称される人形の存在も、オカルトではない
存在として認知されることになるだろう。



その「目」ではあるが、生物学的に光を関知する生物の感覚器官に
限定しても、そこに問題が残る。
光沢のある球面。ガラス玉や宝石類も、短期的には「目」として
認知される。白黒コントラストの高い同心円であったりするものも。
それを生物学的な意味での目だと確信するかどうかは別にして。


言ってしまえば、カメラレンズは、生物学的に目の定義からは外れるが、
そこで写し取られた物は、再生する人によって観察される。「見られる」
のだ。思念を持った生物に間接的にであれ認知されるに至るのであるから
やはりそれも「目」ではある。


人はその視線を…目にはあらざる「目」を…追う。それはほとんど
無意識的に。漫画では描かれた目とされる記号を二次元的に追い、
コマを横断した背景描写を、その者の見ている景色として解釈
したりする。それが感覚的に判らなければ、その者は、同じ作品を
読んでもそこで感じるもの、得られるものは乏しいたろう。
それが個々の作者にあって意識的に用いられているかどうかは
私には判り得ないが、同じ文法・用法は、芸術なり広告なりで
頻繁に見かける。

オーイ

アイヌ語で「オーイ」とは、
悪霊を脅す言葉で、男性のみによって使われるのだとか。


それが、現在、日本の俗習で、妻を呼ぶ言葉となっている。


その背景を考えて猿の群などに想像を巡らせると、
外敵とまず出会うのは監視員であるオスであって、警戒音を立てる。
それを聞いたメスは、危険を察知して群として集合する。強い者の
元に集まる。


その集団の最小単位である夫婦では、危機を察知するのは夫であり、
外敵を威圧するのも夫であり、その声を聞いた妻は、夫の影に隠れる。
つまり、夫の元に寄り添う。


「オーイ」という威圧語は、同時に妻を呼び寄せる言葉でもあった。


社会が成熟し、街が深くなれば、得体の知れぬ外敵に不意に曝される
事が無くなる。そんな平和が担保されるようになったから、威圧の意味が
失われ、妻を呼び寄せる意味だけが残った。…のではなかろうか。